噂の「ディストピア文学」
トランプ大統領が当選してから、アメリカで「ディストピア小説」の売り上げが急上昇したのは有名な話だ。
「ディストピア」とは、J.S.ミルの提唱した「ユートピア」の対義語である。そして、ディストピア小説は「失楽園」を舞台にした物語のことである。ブームの背景は、これまでの社会通念が揺らぎ始め、ディストピアがリアリティを帯びてきていることであると考えられている。
現代において、ディストピア小説は社会の戯画として読むこともできる一方、将来への懸念とも捉えられるのである。
そんなわけで、個人的に興味深かった「ディストピア文学」を紹介したい:
⑴ "1984" -ジョージ・オーウェル (小説)
→ディストピアといえば真っ先に挙げられる名著。村上春樹『1Q84』は、この本にインスパイアされたらしい (内容は全く別物だけど)。
⑵『定年退食』-藤子F不二雄 (漫画)
→定年退職が「一次定年」と「二次定年」に分けられた世界。現代社会においては妙にリアリティがあり、終わり方の余韻に鳥肌。
⑶『俺俺』-星野智幸 (小説)
→文学におけるオーソドックスなテーマである「アイデンティティ」について。「俺」が増殖する話。本当の「俺」は誰?
⑷『殺人出産』-村田沙耶香 (小説)
→10人産んだら1人殺せる時代に。ありえない設定でありながら、何故かリアル。善悪とは何か、考えさせられる。
⑸ "What happened to Monday?" (映画)
→邦題は『セブン・シスターズ』。一人っ子政策の強化版(?)みたいな世界。1人7役で、アクションシーンも見応えあり。
⑹ "Never let me go" -カズオ・イシグロ (小説)
→邦題『わたしを離さないで』。映画にもドラマにもなっていて、この前ノーベル文学賞もとったから知ってる人は多いと思うけど。
⑺ "The Giver" -Lois Lowry (小説)
→色も音楽も無い世界。小学生の頃、1番好きな本だった。
ディストピア文学は、グローバル化と情報過多の社会に溺れ、めまぐるしい変化に混乱する現代の人々の心を掴んでいる。
それは、「物語」という形をとる平和的な社会批判であると同時に、我々に破滅の美を感じさせる芸術である。
近年のディストピア文学の需要は、文学の存在意義を再確認できる一例であろう。
(参照: http://www.dailycal.org/2018/03/18/dystopian-novels-today-1984-fahrenheit451/
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/01/20171984_1.php )
羊羹を食べながら暇つぶしにブログ
逸る気持ちを抑えながら、帰路に買った羊羹を箱からそっと取り出し、お皿に乗せる。緑茶を淹れたコップからは、新鮮な湯気が勢いよく上っている。朝から動き回ってお腹が空いていて、いよいよ食べようという段階で、何故か手が一瞬止まる。
羊羹の色があまりに美しい。艶やかな小豆とザラついた砂糖が織りなす、あの儚い透明感とこっくりした質感は、コンピューターやプラスチックで再現できるものではない。
羊羹は形も美しい。百年以上前から試行錯誤が繰り返され、科学的に生み出された精巧な輪郭は、堂々としていて緊張感さえ漂う。時間を感じながら食べる羊羹は、旅行に似た癒しを与えてくれる。
「変わってはいけないものなど無い。」以前、虎屋の社長がバラエティー番組で言っていた。伝統を敬いながらも新しさを恐れない姿勢が、この羊羹の味に奥行きを生んでいるのか。
羊羹のように自由に漂うことは、美しいことだと思う。
「ひょっとしてレコ発2018」から考える椎名林檎の魅力
※ツアー内容のネタバレ注意
※あくまで個人の感想
[前置き] 「ひょっとしてレコ発2018」とは、今年の椎名林檎全国ツアーのタイトルのこと。現在公演中。
今回のツアーグッズ、サンスクリット文字だらけだし、総額35万円のお着物売ってるし、ボタンとか生地とかあって"自分でグッズ作れ"的な感じもあって、正直私たちファンもわりと混乱してたところがある。しかし実演を見れば全て納得!やはり椎名林檎は裏切らない。
最高に麗しくて神々しくて新しかった!
とはいえ、ファンならそう思って当然だと言われればそうだから、このブログは、椎名林檎ファンじゃない人に分かりやすく「椎名林檎の魅力」を考察してみることにした。
まず今回改めて思ったけど、他のアーティストとは決定的に異なる林檎ちゃんの良さは、やっぱり「ライブ」にある。
一般的に"ライブの良さ"と言うと、「CDほど完璧なサウンドじゃないけど、生な感じがいい」「距離が近くて臨場感がある」みたいな答えを想像するけど、ここで言いたいライブの魅力はそれ以上のもの。
林檎ちゃんのライブにはいつも「物語」があると思う。曲調のバランス (ゆったりしたのと激しいのを混ぜたり、後半に盛り上がる曲をたくさん入れたり) だけじゃなくて、詩の意味も含めた流れがある。
例えば、『労働者』(仕事辛いみたいな曲)→『走れゎナンバー』(樹海まで運転する話)→『神様、仏様』(おそらく死後の世界)っていう流れがあったり。『華麗なる逆襲』→『静かなる逆襲』の流れで歌ったり、一曲目を『人生は思い通り』にして最後は『人生は夢だらけ』でしめたり、全部あげるとキリがないぐらいセトリが考え抜かれてる。もちろん知らない曲があっても、ライブでは背景のグラフィック/演出があるから、言わんとしていることは理解できるようになってると思う。
「物語」がある故、椎名林檎のライブにはMCとかは一切なくて、ライブというよりは、もはや「実演」。もっと言えば映画や戯曲を見てるような気持ちになる。そして、この流れがあるからか、林檎ちゃんはライブ中にアドリブみたいなことは絶対にしないらしい。もちろん曲のアレンジとかはあるけど、全ての動作は事前に決まっていて、例えば"ノリで手拍子する"みたいな"ライブあるある"もない。するとしたら、それは既にリハーサル済み。おそらく観客にはわからない些細な部分まで入念にリハーサルしてるせいか、さっきも言ったように、ライブというより「演劇感」が強い。
中でも今回衝撃的だったのは、「物語」の一貫として、ライブ中にツアー自体の名前が変わったこと!もともと『ひょっとしてレコ発2018』っていう名前で (2014年『ちょっとしたレコ発』の続編的なタイトル、意味の詳細は省略)、ライブ中に『椎名林檎と彼等の真空地帯』 (2015年『椎名林檎と彼等のゆく百鬼夜行』と一寸合わせてある。理由は、たぶんバンドメンバーがこの時と同じだから) って名前に変わる。ツアーの名前を伏せるとか聞いたことないし、粋すぎる!
思えば、グッズのサンスクリット文字も「真空」「虚空」とか書いてあって、グッズサイトには "無音こそが至上の音楽" とかなんとか書いてあった。私たちは、本当のツアータイトルが明かされて初めて変なグッズ(笑)の意図がわかる。
ツアータイトル『真空地帯』の解釈は様々だと思うけど、断定する前にサンスクリット文字で書こうと思った理由を考えたいから、ヒンドゥー教について調べてみる。林檎ちゃんのツアータイトルは、一曲一曲を総合としてみた上で抽象化した感じがあって、ただ内容をまとめてるだけじゃないから、的確で面白い。
こんな具合に、林檎ちゃんは毎回期待も予想も遥かに超えてくる。自分の特色+自分が求められているものを良く知った上で魅せるのが上手で、そこに止まらず、常にイノベーションを起こしてる。作詞作曲の才能があるだけじゃなくて、どれだけ売れてもお金持ちになっても、いつもストイックに追究し続けるところがやっぱりカッコいい。若い時はたくさん遊んでた(気がする)けど、いつも努力家で謙虚で真面目で優しい人だっていうのがインタビューとかを見てても伝わってくる。ちなみに、「椎名林檎はメンヘラ、椎名林檎好きもメンヘラ」みたいなことがよく言われてる気がするけど、確かに昔に流行った曲しか知らなかったら分からなくもない。でも、ファンとしてはそこも含めて最高だから、そこはあくまで一側面として見てほしい。
個人的に、今回は、林檎ちゃんは人生の目標だと再確認したライブだった。大袈裟だけど、林檎ちゃんみたいな目指すべきところがあるから希望を持って生きていけるし、そういうファンはたくさんいると思う。
ちなみに、ライブに行けなくも、林檎ちゃんには知れば知るほど惹きつけられるものがたくさんある。
例えば、曲は、色んなジャンルの特徴を混ぜてて斬新ながらも、歌謡曲的な親しみやすさもちょっとあって、一応JPOPとかロックって言われてるけど「椎名林檎」っていう新しいジャンルだ、とも言われるぐらい面白い曲ばかり。詩も、旧字体を使ったりフランス語になったりするから、あれこれ解釈してて楽しい。cdジャケット、pv、グッズ、衣装、曲名の文字数、テレビ出演の時刻まで、ディテールに隈なく工夫とセンスが施されている。顔も声色も、その場面・曲に応じて毎回激変するから、常に新しい。
とにかく細部までエネルギーとこだわりが詰まってる。
椎名林檎は、まさにプロフェッショナルだと思う。こんなクリエイターはそうそういるものじゃない。音楽の好みを超えて、尊敬できるところがたくさんあるアーティストだと思う!
林檎ちゃんありがとう!